茶文化で卒論を書ける?②

2018-08-28

日本での茶文化の変容

前回の記事で述べたように、茶は留学僧によって唐代に中国から日本に伝えられましたが、これは単なる喫茶の習慣としてではなく、礼儀作法や修行といった仏教と深い関わりを持つ精神的な要素を含めて普及していきました。

その後、茶が日本文化へと適応しながら徐々に普及した8 世紀半ば以降には、茶の受容にあたってその物質としての効用だけではなく、仏教をはじめとする宗教における用い方が茶の受容に大きな影響を与えたと考えられています。

この過程で、中国における茶文化とは異なる日本に特有の茶に関する習慣が生まれることとなりました。

大陸の茶文化が日本全土へ広がって定着し、さらに茶道が生まれたのは鎌倉時代中期に栄西をはじめとする僧侶たちの営みによるものでした。

それが日本の文化として昇華されたのが戦国時代末期です。

この時代に千利休がそれまでの「茶道」の伝統を「茶の湯」として大成しました。

こうした茶文化の定着・変容過程は、他地域におけるそれとは対照的でした。

例えば、朝鮮では国家儀礼、家庭儀礼にともに茶が深く関わったものの茶飲にこだわった庶民文化がそれほど発達しなかったとされています。

それに対し、日本では国家儀礼や儒教関連の儀礼としての茶は結局のところ根付かず、むしろ社会階層を超えた茶道や振り茶、文人茶として庶民に向けて広がってきました。

こうした日本での茶の需要形態に関する特徴は、身分差や階層差を大きくは反映させない茶飲文化を形作ったことにも影響していると考えられています。

日本の美意識

日本式の茶文化の形成の背景には、日本における美意識の転換がありました。

楊・大内(2004)では、雄大華麗な太陽の美と簡素閑寂の陰の美という相反の傾向が日本では見られ、その後者が代表的な日本的な美として定着し、その一環として侘びが生まれたとしています。

それは平安中期の和歌における余情幽玄の美の系譜を汲んでおり、完全性や均衡性を求める中国的な美意識とは異なるものであるとされます。

鎌倉時代末期は吉田兼好に代表されるような無常の現実を生きようとする積極的無常観が現れ、それが中世的な美の中核をなすに至りました。

そうした日本的美意識の流れの中で侘び茶が成立しており、茶人によってそれが一層明確化されました。

このような日本の茶文化は、18世紀には中国のそれとは異なるものとして西洋諸国から認識されており、日本茶への注目が集まることもありました。

近代では、岡倉天心が『茶の本』を著して日本の茶文化の全体像を描きました。

日本における茶文化はこのような経緯で体系化がなされており、平安時代の中国からの受容期のものとは異なる様相が成立してきたという歴史がありました。

これは日本において茶文化が十分に咀嚼され、昇華されたことの表れであると言えるでしょう。

おわりに

2回にわたって日本の茶文化についてご紹介してきました。

文化史の卒論では先行研究を丹念に読み込みながら、時系列での歴史を把握することが大切です。

その歴史の中で大きな変化や他地域との差異を見出すことができたら、それを研究の中心に据えることで、探究を深めていくことができます。

 

おすすめ参考文献

大森正司、1998年「日本人と茶」『日本調理科学会誌』31(3)

徐静波、2011年「中国におけるお茶文化の展開とその日本への初期伝来」『京都大学生涯教育学・図書館情報学研究』10

鈴木実佳、2012年「商品と日常生活文化の受容と流入への警戒 : 18世紀の茶」『人文論集』62(2)

曹晨、2007年「食文化の比較研究-中国と日本の場合-」『地域政策研究』9(4)

楊華・大内章、2004年「中国の茶思想から日本茶道へ」『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』1

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