読書レポートの書き方~①要約

2018-08-05

大学や企業内研修の課題で読書レポートが出ることがありますね。

上手く作成して高い評価を得たいのはもちろんですが、せっかくの機会ですので本の内容をよく理解して、学びを深めたいものですね。

そこで、今回の記事では自分のためにもなる読書レポートの書き方をご紹介します。

読書レポートの構成は、「要約→考察」となりますが、要約として本で挙げられた論点を構造的に整理し、それと関連して自分の意見を考察という形で書くことをお勧めします。小見出しを付けながら小テーマを設定するようなイメージです。

この方法は、本の内容を体系的に理解し、自分の関心のある部分を深めることに役立つからです。

小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(2004年、PHP研究所)を題材に、読書レポートの例を示します。

要約

○論点1-脳死・臓器移植に関する基本事項

まず取り上げられるのが、脳死判定基準の正当性と「脳死」という言葉の歴史の二点である。

最初に、脳死判定基準とは、病院に運ばれてきた患者が脳死状態にあるのかどうかを判定する基準である。日本ではこの基準を満たす人は脳死者として扱われてきた。しかし、著者はこの脳死判定基準自体に問題が潜んでいると指摘する。この脳死判定基準には、無呼吸テストという一定時間人工呼吸を停止しても脳が活動を続けるかどうかを確認する項目が含まれている。しかし、著者はこの無呼吸テスト自体が患者にとって危険であり、患者の生き延びる可能性を狭めている点に注目し、厳しく批判している。

そして、「脳死」という言葉の歴史についての追求も厳しく行われている。「脳死」という言葉はかつて「不可逆的昏睡」と呼ばれていた。それが1968年を機に「脳死」と改名されている。この二つの言葉の違いは大きい。著者は、これは不可逆的昏睡者からの臓器提供を可能にするために、意図的に改名したのだと指摘している。

 

○論点2-脳死は本当に人の死なのか?

次に脳死が本当に人の死なのかが検討されている。

現代の我々は、精神を人の中心とみなし、その精神が宿る脳が機能を停止したとき人は死んだとする考え方をすることがある。これはまさに「脳死=人の死」の図式を成立させるための考え方である。

日本の哲学者でも西洋哲学の変遷を引き合いに出してこの考え方を肯定する人もいる。しかし、著者はこの点に関しても批判的な指摘を加えている。

先ほど示した通説を簡略化すると、「精神の死=人の死」という図式が浮かび上がる。そして、精神が宿るのは脳だから脳死は人の死だとする論法である。しかし、なぜ精神は脳に宿っているといえるのだろうか。一般には脳が人体の有機的統合の中心だからだという答えが用意されている。

そもそも有機的統合とは何なのだろうか、と問いを踏み込んでいくと、結局脳が一律に人体を支配しているとはいえない。脊髄反射はわかりやすい例としても、まだまだ人体には解明されていない現象が数多くあり、それらは脳が有機的結合の中心だとすることの反例になりうるものも含まれている。

以上の理由から、このような不確実な要素を含んだまま脳死を人の死と決め付けるのは早計だと著者は疑問を呈している。

 

○論点3-臓器移植法に対する著者の見解

臓器移植法は制定から数年の議論を経て、基準が緩和されることとなった。著者はこの改正法に否定的であり、「改正」ではなく「改悪」だと主張している。そこで、著者は臓器移植法の再改正に向けて働きかけると同時に、臓器移植法の不備を学生や社会人に周知する活動に取り組んでいる。

 

おわりに

今回の記事では、読書レポートの要約部分の書き方の例をご紹介しました。

必ずしも本の目次に縛られず、内容を整理して論点として提示するのがコツです。

次回はこれを踏まえた考察部分の書き方を扱います。

 

おすすめ参考文献

小松美彦、2004年『脳死・臓器移植の本当の話』PHP研究所

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